ほそぼそと生活する管理人のどたばた劇。https://mizcocy.wixsite.com/uamo (旧 http://uamo.com)の「日記」コンテンツ。// 本家サイト「SolemnAir」
<< とりいそぎ小説更新しました。 | TOP | 忘れられた記憶と思い出された記憶。 >>
駆け抜けていく2016。
こんにちは。管理人です。
更新する詐欺が続いています。

さて、みなさん春です。
唐突ですが、春です。

いろいろなところで、いろいろ大変なことが起きています。
それについての言及はやめておきます。

私は私の日常を捉えることにします。
もちろん、それは全くの無関係ということではなくて
けれど、確かに対岸であるという立場を自覚したうえです。


創作がライフワークだと言い切っている割には
一切の活動をしていないという体たらく。
創作好きを語るべきではないのではないかとも思えている今日この頃です。

その代わりと言ってはなんですが
仕事はがんばっています。
かつてないほど真剣に向き合っています。

その歳でいまさらかよという突っ込みもあるとは思いますが
何歳からでもいいじゃない。
がんばりだすのは何歳からでもいい。
そういうことにしておきます。


やりたい仕事なのかと言われると、断言しますがそうでもありません。
残念です。
労働の契約条件がマッチングしているからやるだけです。


ただツイッターでも散々呟いたんですが
ここに以前書いた気もするんですが
今やっていることに無駄なんかない気がするんですね。


私はどこかで絵の勉強をしなくてはとか、書く練習をしなくてはとか
この時間をもっと創作に使えたらいいのにとか
そんなことばかりを考えていたのです。

途中からなんだか「やらなくては」感があって
「やりたいからやる」はどこへ行ってしまったのだろうと思っていました。
しかし今の仕事でその辺りの意識が少し変わりました。

今の仕事になってから、
一つの業務が周囲に与える影響や自分の仕事の範囲について考える機会が多々あります。
一つの事で考えなくてはいけない分野と範囲を推測して動かねばならないことがあります。

私はずっとそれは誰かがすることだと思っていたのだと思います。
そういうことは他の誰かが考えてくれることで
自分はただ指示に従えばいいのだと。

この歳までそう思わなかったことは愚かなのかもしれないし
ここでこう思えたことは良かったことなのかもしれません。


今の周囲は私のできることを増やそうとしてくれます。
それは善意だけとは限りません。
自分が楽をしたいからの人もいれば、責任をおしつけたいからの場合もあります。
また良かれと思っておせっかいの度が過ぎる人もいます。

それは明らかに私に求めることではないのではないか(立場的に)
と思うようなこともありました。
意見や考え、仕事のやり方の圧しつけ、世代間の違いの齟齬などもありました。


正直腹を立てることもありました。
苛立ちも、そこから感情をだしてしまったことも。

その代わり、全く関係ないところから救いの手がありました。
愚痴を聞いてくれる人がいました。

それらの経験は回数を重ねるごとに気持ちを変化させました。


言われることを不快に思うなら
言われないように先回りをすればいい。
足りていないことを責められるのなら
次はそこが欠けてないように気をつけよう。

そうするために私はそもそもどこまでを意識して考えておかなくてはならないのか。
そこを考えるようになりました。

それですぐに結果につながらなくても、
その意識が変わった部分は他者に映るのだと実感しました。

今もそれで結果を出せているわけではありませんし
エキスパートになれるわけでもありません。

一回でできるようになる人と
何回やってもできない人がいます。
今でも資料一枚から読み込める幅は大して広くありません。
けれどそう意識することとしないことは全く違う話だと思っています。
結果が出せないということは同じでも。
仕事なので結果を出せないとなかなか評価はされないところです。
評価されるために自分がどう動くかは自由です。
評価そのものが結果論だとしても、そこの指針を決めるのは精神論と根性論ではないかなと思っています。
その上で結果が出せれば理想的な話だと思います。


それはさておき。
ふっと、そんな日常で考えること、感じることが無駄なのかなと思いました。
やりたいことをやっているわけではないから
だからってなんなのだろうと思うようになりました。

私が今やらなくてはならないことは
絵の勉強?文の練習?
やりたいことをやっているわけではなくても
何かができるようになることは自分にとっていいことではないの?

これらで変化した意識や身につけたものは、
他の場所に行った時に不必要なことかしら。


むしろ、ここで考えたこと感じたことを書いていきたいなと思うようになりました。




当たり前のことですが、
この時間を創作に充てている人とは土俵が違います。
その人たちはそれらを表現する技術にたけていくはずですし
そもそも別の意味で厳しいところを駆け抜けているはずです。

二足のわらじでも作品を作る人は作ります。
やる人はやります。
つたなくても形に仕上げます。
または一足のみで駆けていく人もいます。


それを比べてどーすんだってブーメランが返ってくるようになりました。
ようやくそこです。
この歳で。
いい歳こいた社会人が。
ようやく。


いいじゃない。
生きることはいつだってなんだって発見だよ。
今は苦笑いしつつそれで疾走です。


私は私のペースでってそういうことだ。多分。
ずっと自分が口先で言ってたことが実感で返ってきた。
頭で考えて唱えていたことを身体で納得した。

そんな感じです。


例えば、いま、あれだけ描きたかったことが形になっていなくても
私はそれを描くために毎日をがんばって「生活」しているのだし
そこを自分の基準で手抜きはしていないのだから
間に合わなかったのかって思うだけで
やり残して悔しいとは思わないのかもしれないなという気がしています。


一芸に秀でていなくても
形にならなくても
自分が自分の歩いている道を肯定できるのであればいい。

それは無理な納得や
理屈による強制的な肯定ではなく

あ、これでいいかな

って思って清々しく帰宅できたり
優雅にお茶が飲めたり
浮き浮きと目的地に向かえたり
できることかなって思っています。


以前はこんなのはただの言い訳で
情けないって捉えるようなことだったんですが



いや、やることやってるし。
できる限り精一杯やってるし。
よりより自分になるため自分なりに頑張ってるし。

それでもなんで自分のことを責めにゃならんのだ。
結果が出てないから?
実績になっていないから?
じゃあこの毎日は無駄?

結果を出すための過程は
実績を積むための毎日は
どこにあるもの?



「結果が出ないと意味がない」
って、いろんな幅での捉え方がある気がして
「結果を出せないと意味がない人間」
てことにしなくてもいいんじゃないかなって気がするんですね。

んでその上で結果を出せる人間になりたいなって
ようやく今そこなんですよ。
この歳で。
もう笑うしかないけど、目指す足はあるわけだから歩くしかないよね。
黙って座って空から落ちてくるならいいけど
なかなかそういうことは巡り合えないものだから。




多分、今の日々を一言でいえば
充実しているんですよ。

仕事人間ってほど仕事人間ではないし
趣味活動は激減しているけど
毎日疲れ切って帰ってご飯食べて仕事のこと考えて
考えんのも疲れて明日の自分が考えようって風呂入って寝る。
朝日はやっぱり気持ち良かったり
雨の音が心地よかったり
風で季節を感じたり

そんで疲れ切って、星空眺めて帰ったり
姉の子供たちのお菓子買って帰ったり

そういう毎日が、好きなんだと思う。
仕事そのものはやりたいことではないはずなのに。

そしてやっぱり、そういうことを書きたいんだと思う。


職種なんか関係ないし、働いているかどうかも多分違うこと。
自己否定と自己肯定と捉え方と受け身のところ。


誰かががんばる毎日同士がぶつかり合って
社会を形成していて
人の群れ。
地球上に大きな一つのコロニー。


その化学反応はたった一度、一回きり。
同じ反応は二度となく
座標が同じところを指すこともない。




その線香花火のような毎日を、私は美しいなあと思ってしまうお話でした。
ではまた。



posted by uamo | 22:14 | 日常 | - | - |
Search this site


◆http://uamo.com/
◆MASTER:MizcoyUamo
◆MAIL:3lovers[atmark]uamo.com

THANKS!DANKE!



BACK TO THE HOME