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適応できないネガティブさの推進力。



前半は先日ツイッターに連投したものですが
最近思っていること。


職場の後輩(正確には同僚ですが年齢が7つくらい下なので便宜上後輩と呼びます)が、潰されそうである。
社会にでも世間にでも先輩にでもなく、自分に。
しかしその子にどんな言葉をかけても届かない。壁を打ち立てて殻に籠ってしまっている。無自覚に。

あなたが思っているほど他人はあなたのことばかり考えたりしないし、
あなたが思っているほどあなたの人生に重きを置かない。
あなたが思っているほどあなたがどんな人か気にしていないし、
あなたが思っているほど世界はあなたひとりに関心を持たない。
という感覚を外から拓きたいのだけども難しいね。

思い込んじゃっている。
そして自分を責めたり可愛がろうとしたり立ち直ろうとしたり足掻いたりもがいたりしている。
自分の中にある他人像にさいなまれて、
自分を(物理的に)壊していっている。
大丈夫だよ。
あなたがどんな人でも、他人はあなた以上にそれを特別視していない。
よくもわるくも。

というのも、その子は本当に数年前の私にそっくりで、
(周りの物理的な)世界を自分と同化して自分の中だけで計って、
他人が他人だという前提を感覚的に失念してしまっている感じで、
それはもうどうしようもない閉鎖的な盲目的な自己世界の完結で、
それだけに自分自身がどうにかならなくてはならず。

ある意味で他人の目を気にするあまり、自立できないのと近い。
自立しようと思い込んで自虐していきながら
その状況自体がもはや他人の目に対しての依存そのものである、ような、そんな妙な話。

その状況の子に、さて、何を言ったものか。
問題は周りがその子の気持ちと原因を理解できないことにもある。
なぜ自分を責める必要があるのか、から始まり価値観の違いや経験の違い、性格の違い、など
とにかくこの辺りの理解を得ることは一筋縄ではいかない。
なぜならそうは思わない思考があるから。

実際同僚や先輩たちとその子について話してみても、
「なぜそれほどまでに自分を追い詰めるのかがわからない」
という言葉が大多数だった。
思い込みというものは怖いもので
「しなくてはならない」「そうであってはいけない」
という思い込みが自分を縛り上げて
それがさらに他人との間に壁をつくることを自覚させない。
同僚、先輩たちに言葉を砕いて、
過去の自分を振り返りながら説明を重ねるが
そもそも思い込みをしない人に、その心理状態を説明するのは難しい。

そうして
学校のお遊戯ではないのよ、とばかりに社会に弾かれてしまう。
ほぼ本人のメンタルと思考の問題だ。
それは本人もわかってる。
だが、しかし。だがしかし……。
甘えだと言ってしまえばそれまでで。
けれどみんなが強いわけでも、うまいわけでもなく。
自分にどうこうできるとは思わないが、どうにかならないかとは考えてしまう。

なにかしてあげるなどと傲慢なことをいう気も、
なにかできるのではなどと問題を軽視する気もなく。
ただ、この場合の解決策はなんだろうなと考えている。
結局は自分で殻を破るなんて古典文学にあるような月並みなことしか考えられず。
いつか彼女も気づくだろうが、今の彼女が傷つく様をみるのはしのびない。

上から目線で物言いたいわけではない。
そう聞こえても違う。
近道あるよって言いたいんだけど
本人にその道が見えない以上は近道なんかないんだなって、もどかしいんだ結局。
歳を重ねてきてしまった。
そして私の上は同じように私に対してももどかしいことがあるんだろう。きっと。


でもね、ずっと思ってる。
欲しい言葉を強請ってもいいじゃない。
子供みたいに子供じみたものを欲しがってもいいじゃない。
大人だからって甘えてはダメだとかしっかりとかちゃんととか
そんな規則はどこにもないじゃない。
みんな一律で大人になるわけでもなければ一律の規格があるわけでもないのだから、と思うよ実際。

もちろんそれが社会の組織の中の役割を持つものとしては通用しないケースが多々あることを、
身にしみて知ってはいるのだけれども。


とりあえず後輩が立ち直る日を。
立ち直れないなら倒れる前に(環境から)逃げる決意ができますように。
(そもそもそれを逃げるととることも、逃げることが悪いととることも全部一点からの見方だきっと)
自分を完全に壊しきる前にいずれかの方向に進みそれが未来で笑顔につながりますように、って
もはや祈りだ。


その子が口に出せばいいのかもしれない。
苦しい、ツライ、こんなのが嫌、あんなのが嫌。
それをなんでそう思うのかちゃんと伝えれば変わるものもあるとは思う。
ただ、その苦しさや辛さの所在が、自戒に拠るもの過ぎて
周りはどうしていいかわからなくなる、というのも想像がつく。

周りは、その子が思っているほどその子の人生を重視していない。
その人にとって一番重要なのはその人の人生だからだ。
それは決して悪い意味ではなく、他人を軽視するものでもない。


隣の人がひとつ大きな失敗をした。
それを本人が気にして落ち込む時、次につながるさと励ます。
直接的な害がない限り、励ます人にはその失敗はダメージじゃない。
あくまでもそこで本人が気にするならば、それは本人の問題だ。
そんなに気にすることじゃないよ、といっても
「でも、だけど、あの時、」
と続けられるとどうにもこうにもならなくなってしまう。
そこに必要なのは本人の考え方や受け取り方の転換で
気にし過ぎればするほど首が絞まっていく。
そしてその時、周りの首は一切絞まったりしない。

「自分は自分、他人は他人」

この言葉は、決して冷たい言葉ではなく、無関心を示す言葉とは限らず、

自分が他人を想って何かをしようとするとき
自分が誰かのためになにか動こうとするとき
自分が自分のために生きていこうと思うとき

必要な区分なのではないか、と成人してから思うようになった。

暴論かもしれないが
それが依存や自立の話につながっているのではないかと。

そこを切り分けることで初めて
自分と他人をそれぞれに
認めていることになるんじゃないか
向き合っていることになるんじゃないか
と思うようになった。


後輩は
他人の言葉を気にしている。
他人の目を気にしていて
自分の失敗を恐れている。
なにか一つ、自分で間違えたと思うたびに
それがいけないことだこれではダメだしっかりしなくちゃちゃんとしなくちゃ
そうして雁字搦めにしていってしまう(ように私には映っている)。

私も他人の言葉は気になるし、他人の目をうかがう。
失敗を恐れるし、間違える自分に幻滅もする。
けれど、それも含めて自分だ。
どうしようもなくて、情けなくても、それが自分でしかない。


いつだったかの記事にも書いたけど
ここでのこのことが、自分を何か損ねるだろうか?
次間違えなかったら自分をほめればいいんじゃない?
迷惑かけた分、次は迷惑にならないようにすればいいんじゃない??
大事なのは誠意と反省じゃない??
ふっと突然そう思い始めたら、
自分を一番責めて自分を否定していたのは自分だったなんてお話にありがちなループの
その真っただ中に自分がいたんだと感じた。
そしてそのループは自分のためにも他人のためにもならないという結果付き。


もちろん、誰もがこう感じるわけじゃない。
こんな風に考えるわけでもない。


けど後輩はそのループのど真ん中にいる気がしてもどかしい。
自分を一番に否定しても、結局は否定しきれないから反発していく。
結局はわけのわからないせめぎ合いの中で
他人を責めることもできずに自滅していく。


誰が悪いわけでもなく。
後輩の考え方が悪いということでもない。
きっとそれは同じように他人の目に敏感になる人の気持ちに共感できる。
その辛さを理解することができる。
ただ、職場の環境にうまくつながらない。


先輩や同僚の言わんとすることも痛いほどわかる。
しかし、後輩の感じていることが身に染みてわかる。

時間というのはすごいもので。
きっとここを過ぎればその子はどこへ転んでも
それは未来への大きな経験値になる。


そんなことを考えながら明日からまた一週間が始まる。
この一週間をどんなふうに終わらせて、自分の中にしたためるかはあなた次第なんだよって思いながら
見守ることしかできない先輩もどきは自席から後方にがんばれオーラをだしておこうと思う。
もちろん、軽く声はかけていこうと思うけれども。


この言葉きこえますか。
その壁、ちょっと壊していいですか。
posted by uamo | 18:58 | 日常 | - | - |
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